ランナーのための熊対策実務ガイド—出没増加期に備える最新知見｜（シリーズ＃1）原文完全版

1. エグゼクティブサマリー

• 出没増加期（春～初夏・秋）は、採食と繁殖・子別れ等で活動が拡大し、とくに薄明薄暮帯と秋の夜間にヒグマ／ツキノワグマの出現が増えるため、単独高速移動のランはリスクが高まります（環境省総合対策・生態章）。
• 予防の肝は「遭わない設計」。最新の自治体警報を起点に、時間（早朝・夕方回避）、場所（出没・採食場・見通し悪い谷筋回避）、行動（発声中心・鈴は補助）をルーティン化します（北海道・長野・富山市等の通達）。
• 遭遇時は距離×態度で対応を分岐。>100mは静止観察→退避、50–100mは停止・後退・警戒、<50mは防御姿勢・退避準備、至近で突進兆候があればベアスプレー（有効射程3–5m目安）を使用（環境省行動指針、JWM研究）。
• 装備は「声＞鈴・ホイッスル（補助）＞スプレー（最後の盾）」の役割分担。鈴は周囲音の聴取を妨げ得るため過信禁物。スプレーは風向・距離・携行位置で有効性が大きく左右されます（知床財団、環境省、JWM）。
• 法規・運用は地域差と場面差が大きい。航空機内持込は危険物扱いで原則不可、レースでは鈴の禁止区間などローカルルールあり。最新の官公庁・主催者告知を都度確認が必須です（国交省、UTMF規定）。

参考文献（章1）：環境省 2020–2021「クマ類の生態と現状」「基本事項」 ／北海道庁・札幌市 2025 注意報等 ／長野県 2025 注意報 ／富山市 2025「クマ対策」／JWM 2008（スプレー有効性）／知床財団（対処法・鈴の留意）／UTMF規定 2025・2023／国交省（危険物）

2. 方法（検索式・期間・採択基準・限界）

期間：主に過去10年の一次情報（官公庁・自治体・研究機関）と査読論文、加えて過去24か月の注意報・ニュース（事実ベースの一次発表優先）。

データ源：環境省「クマ類総合対策」各章、北海道庁・長野県ほか道府県/市区町村告知、林野庁・森林総研、J-STAGE/ PubMed/ Nature系/ JWM（査読）。検索語例：「ヒグマ 対応 指針 site:go.jp」「ツキノワグマ 出没 注意報 2024/2025」「bear spray efficacy journal」。

採択基準：①一次情報（公的機関）＞②査読論文＞③直近の一次発表（注意報/警察・自治体発表/事故報）。ブログ・まとめ・個人談は除外。

限界：自治体運用（鈴・ホイッスル・出没告知）は地域差大、研究も地域（北米/欧州/北海道/本州）で外挿の限界あり。鈴・ホイッスルの効果は実験的エビデンスが乏しく、不確実性を注記する。

参考文献（章2）：環境省 総合対策 2020–21 章構成資料 ／森林総研（基礎情報）

3. 出没傾向：季節・時間帯・地域差／ツキノワ vs ヒグマ／ランナー固有要因

季節・時間帯：両種とも春～初夏は繁殖・子別れで移動が増え、秋は堅果類・鮭等の採食で活動時間が延長。薄明薄暮と秋の夜間活動が増える（総合対策・生態章）。

地域差：北海道はヒグマ、秋季の鮭遡上河川や堅果不作年で市街地縁辺出没が増加（道・札幌市の注意報）。本州はツキノワグマで、ブナ・ミズナラ結実状況に応じて低標高帯・林道沿いの出没が増減（環境省、県通達）。

ツキノワ／ヒグマの違い：体格や行動圏、採食パターンに差があるが、いずれも人由来の食物に学習・執着し得るため誘引物管理が重要（環境省）。

ランナー固有要因：①高速・静音で接近→近距離でのバッタリ遭遇リスク上昇、②ヘッドホンで環境音を遮断、③単独行動・薄明薄暮の練習が重なる、等。公的指針は「人の存在を知らせる」ことを推奨しつつ、鈴は周囲音の聴取低下の副作用に注意と明示（知床財団）。本報では発声（会話・掛け声）と速度調整を第一選択とする。

参考文献（章3）：環境省 生態章 ／札幌市注意喚起 2025-09 ／北海道庁 ヒグマ警報 2025-09／長野県 注意報 2025-09 ／知床財団（出会わない・鈴の留意）

4. 予防策：ルート/時間帯選択、グループ走、発声・鈴、嗅覚・採食期の留意、行動学の理屈

時間帯：出没増加期は早朝・夕方の山中走行を回避。秋は夜間活動も増え注意（環境省）。

ルート：①出没マップ・直近注意報を確認（自治体LINE配信など活用）、②視界の悪い藪・沢沿い・谷底・餌場（堅果林・果樹放置・鮭遡上河川）を避ける、③見通し悪いコーナーでは減速＋声出し（富山市・環境省）。

グループ：少人数より複数人の方が気づかれやすく、威嚇・突進の誤解を生みにくい（総合対策の趣旨、Bombieri 2019の事故態様も参考）。

発声・鈴：発声（会話・「ヘイ、ベア」等）を基本。鈴・ラジオは補助として有効だが、周囲の気配を聞き取りにくくするため過信しない（知床財団、自治体告知）。

嗅覚対策：食料・飲料の匂い管理、汗・ジェルの残置禁止。誘引物管理が出没抑制の鍵（環境省）。

参考文献（章4）：環境省 生態章・基本事項 ／富山市 告知／知床財団（出会わない）／Bombieri 2019（事故態様）

5. 遭遇時対応：距離帯×態度別シナリオ（やってはいけない行動含む）

>100m（遠距離）：静止→相手の向き・子連れ有無・採食状況を確認。こちらは走らない、写真目的で近づかない。風下なら退避を先行（環境省）。

50–100m（中距離）：その場で停止して状況判断→ゆっくり後退。子連れ・採食中は執着が強い。背中を見せて走らない（環境省）。

<50m（近距離）：視線を外し防御的姿勢（体を側向、荷物を盾に）。騒がない・威嚇しない。退避可能なら遮蔽物を介して後退（環境省）。

至近・威嚇/接近（チャージ兆候）：ベアスプレーを3–5mで下方から顔面へ扇状に。逆風・強風・豪雨は効果低下。誤噴射リスク（自己暴露）に備え、風下側へ退避できる位置取りを意識（環境省、JWM）。

やってはいけない：走って逃げる／死んだふり（日本のクマ対応では推奨されない）／餌付け／至近での撮影接近。子グマ接近は厳禁（母グマの防衛反応）。（環境省・各県ガイド）。

参考文献（章5）：環境省「出没時の対応」「基本事項」 ／石川県マニュアル（住民向け原則） ／JWM 2008（スプレー有効性）

6. 装備レビュー（有効性と限界／推奨携行構成）

熊鈴：人の存在通知の補助。ただし、周囲音（枝折れ・地鳴り・吐息）の聴取を妨げ得るため、発声とセットで使う。藪・強風・沢音環境では減衰（知床財団、自治体啓発）。誤用：鈴に頼って“無警戒高速進入”。

ホイッスル：持続的に大音量を出せる人間向け合図としては有効。クマ忌避の確証的エビデンスは乏しいため、あくまで対人・緊急連絡主体（富山市ほかは携行推奨）。

ベアスプレー：最後の盾として有効。実地研究（アラスカ、73件で高い撃退率）と国内指針の双方が有効性を示す。ただし至近距離（~3–5m）で、無風～弱風、正面噴射が条件。携行位置は胸前/腰前で即応。逆風・強風・豪雨・遮蔽物で効果低下。期限切れ・誤噴射は重大リスク（環境省、JWM）。

ライト：忌避装置ではない。薄明薄暮・夜間にやむを得ず行動する場合の視認・合図目的で携行し、夜間走行そのものを避ける（環境省：秋は夜間活動が増加）。

推奨携行（増加期の山中ラン）：①胸前即応のベアスプレー（練習必須）②発声を基本、鈴は補助③緊急時ホイッスル④地図/GPSと明るいヘッドライト（夜間回避が前提）⑤食料防臭管理袋。

参考文献（章6）：環境省 基本事項・生態章 ／JWM 2008（スプレー）／富山市 告知（鈴・笛・ラジオ）／知床財団（鈴の副作用）

7. 法規・運用メモ（自治体指針／航空機・イベント規定）

• 航空機×ベアスプレー：航空法上の危険物に該当し、機内持込・預けとも不可が原則（国交省「危険物」「代表例」）。実務上も航空会社は受託不可の扱い（JAL等）。陸路で入手・返却が基本。
• イベント規定：住宅地通過区間の鈴禁止など、主催者ルール差が大きい（UTMFは「鈴禁止区間」設定、23年版にも注記）。エントリー時に必携品・禁止事項を必ず確認。
• 自治体ガイダンス：出没注意報・通行規制・入山自粛などは頻繁に更新。直前に自治体ページを確認（札幌市、長野県等）。

参考文献（章7）：国交省（危険物）／危険物代表例PDF／JAL危険物案内／UTMF規定 2025・2023／札幌市・長野県告知

8. 直近事例レビュー（過去24か月／ランナー関連中心）

• 2024/11 長野・野沢温泉村：早朝ラン中の男性が霧の中で親子グマにバッタリ遭遇、頭部等負傷（FNN、SBC/TBS）。→視界不良＋早朝単独走の組合せは回避（距離管理不可）。
• 2024/6 北信地域：木島平村でトレイル練習中の男性が肩をかまれる。同時期に人身被害連続、県が出没注意報発令。→練習ルートでも最新注意報確認と発声基本の徹底。
• 2025/9 北海道・札幌市：市内での人身事故発生を受け注意報発出。→都市縁辺のロード・トレイルでも**“市街地だから安心”は禁物**。

参考文献（章8）：FNN 2024-11、SBC/TBS 2024-11、NBS 2024-06、札幌市 2025-09

9. 実務チェックリスト（ロード／トレイル）

共通の前提：①出没・注意報の当日確認（自治体・警察・管理者）②単独・薄明薄暮・高速の三点同時は避ける③発声＞鈴④スプレーは胸前で即応。

ロードランナー

• 走行時間を日中帯に固定。通勤・周回は同一ルートの固定化で事前巡視を効かせる。
• 川沿い・緑地・果樹・採草地縁を減速＋発声で通過。霧・強風・豪雨は区間短縮。
• イヤホンは原則オフ（周囲音把握）。やむを得ず片耳骨伝導でも発声を優先（鈴過信×）。
• スプレーは利き手側。腰後方・ザック奥は“間に合わない”。（環境省・JWMに基づく要件整理）

トレイルランナー

• 直近の林道・登山道通行情報／入山自粛を確認し、子連れ遭遇の多い時期（初夏）や餌場接近期（秋）は迂回。
• 見通しの悪い曲がり角は減速→「声」→進入。沢音・強風・雨音環境は発声頻度↑。
• グループ走は間隔を詰めて行動（数十mのばらけは単独化）。
• ナイトランは原則しない。やむを得ない場合は明るいライト＋発声でも、秋は夜間活動↑を理由に計画変更を第一。

参考文献（章9）：環境省・JWM・知床財団・自治体注意報（各上掲）

10. リスクと不確実性／今後の課題

• 鈴・ホイッスルの科学的有効性：実地の行動実験は限定的。「人の存在を知らせる」機能はあるが、忌避効果の強度・範囲は不確実。発声を主、鈴等は補助とする（一次指針の整合）。
• スプレー：有効ながら条件依存（距離・風・姿勢）。即応性を左右する携行位置・反復訓練の影響は今後も検証が必要（JWM・環境省）。
• 行動圏と事故発生の地域差：堅果凶作年・都市縁辺の出没増加、道路・人為撹乱への反応は地域差が大きい（2024–25の生態研究）。ローカル情報の常時更新が不可欠。

参考文献（章10）：知床財団／JWM 2008／生態研究 2024（道路・人為撹乱）

11. 参考文献リスト（重複は最少化・分類）

A. 官公庁・自治体・研究機関（抜粋）

• 環境省（2020–2021）「クマ類の生態と現状」「出没時の対応」「基本事項」https://www.env.go.jp/nature/choju/（PDF各章） 
• 北海道庁（2025）「ヒグマ出没警報」https://www.pref.hokkaido.lg.jp/
• 札幌市（2025）「ヒグマに注意！（市内事故・注意報）」https://www.city.sapporo.jp/ 
• 長野県（2025）「ツキノワグマ出没警報（第5号）」https://www.pref.nagano.lg.jp/ 
• 青森県（2024）「クマ出没警報（第5号）」https://www.pref.aomori.lg.jp/ 
• 秋田県（2024）「クマ出没警報等」https://www.pref.akita.lg.jp/
• 富山市（2025）「クマ対策」https://www.city.toyama.lg.jp/
• 石川県（2022）「ツキノワグマ対策マニュアル」https://www.pref.ishikawa.lg.jp/（PDF） 
• 国土交通省（2025）「航空：危険物」https://www.mlit.go.jp/
• 森林総合研究所（年不明）「ツキノワグマの生態等」https://www.ffpri.affrc.go.jp/

B. 研究機関・査読論文

• Smith, T.S. et al. (2008) “Efficacy of Bear Deterrent Spray in Alaska.” Journal of Wildlife Management（PDF）
• Bombieri, G. et al. (2019) “Brown bear attacks on humans: a worldwide perspective.” Scientific Reports
• Brown, L. et al. (2024) “Behavioural responses of brown bears to roads and human disturbances.” PLOS ONE/PMC（オープン）
• Honda, T. (2020) “Mechanisms of human–black bear conflicts…” Science of the Total Environment（レビュー）

C. 直近24か月の通達・ニュース（一次発表優先）

• 札幌市（2025/9）注意報発出と事故情報 
• 長野県（2025/9）出没警報（第5号） 
• NBS長野放送（2024/6）トレイル練習者の被害報道（県注意報）
• FNN・SBC/TBS（2024/11）野沢温泉での早朝ラン中の被害報道（事実経過）

補足（編集上の方針）

• 本稿は「遭わない」設計（時間・場所・行動）を最重視し、発声を基本、鈴・ホイッスルは補助、スプレーは最後の盾と定義しました。鈴や電子ホイッスルなどの忌避効果に関する強固な因果証拠は限られるため、一次指針・査読論文に整合する形で不確実性を明記しています。
• ベアスプレーは携行可の想定ですが、航空機輸送は不可が原則です。遠征時は現地購入→現地返却、または陸路運搬を検討してください（国交省・各社規程）。